院長 はり・きゅう治療担当 吉田和平です。
吉田 和平(よしだかずひら)
昭和57年12月6日生まれ(O型)
兵庫県姫路市白浜町出身
趣味 サッカー マラソン 読書 ドライブ
初めまして。かずひら鍼灸院 院長 吉田和平です。
当院ホームページをご覧くださり、ありがとうございます。
「鍼灸院って、どんな人がやっているかがわからないから行ってみたいけど行きにくいねん」というようなことをよく耳にします。
確かにその通りだなぁと私も思います。
そこで、少しでも皆さんに少しでも安心してご来院していただけるよう、少々お恥ずかしいですが、私の自己紹介をさせていただきますね。
私は昭和57年12月6日生まれ。両親はガラス店を営んでおり、2歳上に兄がいます。幼い頃は、母親から離れることができない「超甘えん坊」でした。内気な子供でした。そんな性格は小学生になっても変わらず、心配した両親のススメにより、小学3年生の時に地元のサッカーチームに入団したんです。そこからサッカー漬けの毎日が始まりました。憧れの選手は三浦知良!当時Jリーグが開幕してすぐだったこともあり、「自分も将来はサッカー選手になるんや」と思っていました。
中学生の時には、兵庫県選抜チームの一員として、たくさんの大会に出場し、韓国遠征にも参加しました。
しかし、高校入学した頃から雲行きが怪しくなっていきました。
忘れられないのが、高校で初めての練習試合。初めてシュートをしたときに、右足付け根に痛みが走ったんです。我慢してその後も練習していたんですが、ついには走るだけでも激痛がでるようになってしまい、「これは変だ」と思い、病院に行くと、骨にひびが入っていたんです。
こんな感じで、高校時代は大切な試合前になると、肉離れを起こしたり、カゼをひいたりと、体調万全!ということが少なかったように思います。これは、たぶん、メンタルの弱さが原因だと思います。試合で良いプレーができるか不安。→練習しても練習しても不安。→練習しすぎる。→けが。という悪循環でした。
高校3年生の時、Jリーグチームの入団テストを受けました。2日間のテストだったんですが、そこでも私は1日目に足をねんざしてしまい、2日目はプレーすることがでいませんでした。何より、プロの世界を目の当たりに、ビビッてしまいました(笑)その後、もう1チームのプロテストを受けたんですが、そこでも自分の実力のなさを思い知り、あっけなく「サッカー選手になるんや」という夢は破れました。
ただ、次に目指すものは決めていました。スポーツトレーナーです。私はケガが多かったので、中学生の時から鍼灸治療も受けていたし、接骨院にも行っていました。それらが素晴らしい仕事だということをわかっていました。「スポーツ選手をサポートするスポーツトレーナーになる」そう決めたら、色々な方からアドバイスをいただくことができました。その中に、「トレーナーになるためには治療資格を持っていた方がイイ」というアドバイスがあり、私は馴染みがあった鍼灸の世界へと進んだんです。
鍼灸専門学校で3年間学び、無事国家試験にも合格し、鍼灸接骨院に就職。勤務時代は、とにかくたくさんの患者さんと出会い、色々な症状を治療させていただきました。そして「自分流の治療をしたい!」という想いが強くなり、2006年7月7日、生まれ育った町、姫路市白浜町で開院しました。
しかし、開院してから、問題発生。
なかなか患者さんが来院されない・・・という大問題もありましたが、ここでは省略(笑)
接骨院勤務時代は、たくさんの症状を治療させていただいたとお話しいたしましたが、そのほとんどが、腰痛や神経痛・ひざの痛みなど、筋肉・関節系の症状だったんです。それが、開院してみると、「腰も痛いけど、最近膀胱炎のような症状もあって・・・はりで治療できますか?」とか「うつ病で、不眠です。治療できますか?」といった相談が意外にも多かったんです。
その頃の私は、そのような症状に対する知識も治療技術も持っていませんでした。これは困った・・・そこで、何か良い鍼灸治療法はないか?と探しました。そこで出会ったのが、「反応点治療」という自律神経反射を利用した治療法でした。私の母校の先生が作った治療法です。すぐに、「教えてください」と連絡をし、講習会に参加したり、学生に混ざって勉強をしました。
現在は、その治療法の知識・技術を習得できていますが、まだまだ勉強中です。
ここまでが、これまで私が歩んで来た道です。長々とすいません。もう少しだけお付き合いください。
私は3年前に院の理念を作りました。
「1人の患者さんを元気にすることで、明るい家族・明るい社会の創造をお手伝いします」
これが当院の理念です。
私事ですが、数年前に母が体調を崩しました。体調を崩したと言いますか、持病が悪化したといいますか、とにかく、医者から告げられた病名は生死に関わる重病でした。手術をした結果、非常に予後良好で、現在は、昔と何も変わらず元気なんですが、あの時の家族の落ち込み具合はひどいものでした。お恥ずかしい話ですが、私も参ってしまい・・・口数は少なくなるし、ふと母のことを考えると、勝手に涙が流れてくるし・・・その時に、「家族1人が体調を崩すことで、こんなにも家の中が真っ暗になるのか・・・」と知りました。
当院には、患者さんに付き添ってご家族の方が来られることもあります。患者さんだけでなく、ご家族の方も不安そうな表情をされていることが多いです。そして、患者さんが良くなっていくと、ご家族の方も喜ばれます。患者さんに元気になっていただくことで、そのご家族も笑顔にすることができる!もしかしたら、当院から笑顔の輪を広げることができるんじゃないか?
そんな想いを抱きながら日々診療に取り組んでいます。
私の目標は「病院の検査では異常がないと言われるけど、症状があって困っている。薬がなかなか効かなくて困っている」このような方々に元気になっていただくことです。そして、健康に生きられる期間=健康寿命を延ばし、ご本人も、そのご家族も、みんなが楽しく家顔でイキイキと暮らす。そんな幸せな場面のお手伝いをさせていただくことができたら、私は幸せです。
今後もスタッフ一同、一生懸命努力してまいります!
かずひら鍼灸院 院長 吉田和平
公開日:
あんまマッサージ指圧師 北村祐太です。
北村祐太(きたむらゆうた)
平成3年3月19日生まれ(A型)
兵庫県姫路市出身
趣味 パソコン・スマートフォンいじり(やや詳しいです)
保有資格 あんま・マッサージ指圧師
「自分があんま師になるなんて、思ってもいませんでした」
初めまして。かずひら鍼灸院の北村祐太です。僕が生まれたのは大分県。生まれてすぐに父の仕事でここ姫路に引っ越してきました。幼いころはおとなしい子供で、2歳下に弟が居るのですが、その弟とよくトランプをして遊んでいました。
その一方、生まれつきだったのか、小学校に入学する頃には夜外に出ると何も見えない。テレビは間近まで近づかなければ見えない。と、目が悪かったんです。自分でも「目が悪いなぁ」とは思っていたんですが、近所の眼科で経過観察をしていただきながら、日常生活は送れていました。
私が大学生の頃、レーシック手術を受けるための術前検査をしてもらったところ、網膜色素変性症という聞いたこともない病名を告げられました。それは、徐々に視野・視力が失われ、最終的には失明してしまうという病気でした。「人よりちょっと目が悪いだけ」そう思っていた僕に、突如突きつけられた現実。なす術もなく、恐怖と不安で一杯になったことを今でも覚えています。
これといった特技があったわけでもなく、何か突出した才能があったわけでもない。その反面、これといった不自由もなく今まで生きてきた僕が、これから先、どう生きていくのかを真剣に考えるキッカケになった出来事でした。
色々な情報を集めました。そして、あんま師になることを決めたんです。「やってみたい」と思えたことに加え、国家資格であり、技術職であることも魅力的でした。視力が悪化していく中、新たな事を学ぶことに不安だらけでしたが、思い切って専門学校を受験。運よく合格したことを機にあんまの世界へと入りました。
現在、私の視力は子供の頃と比べてもずいぶん衰えてしまいました。その代りと言っては何なんですがあんまの知識や技術を身に着けることができました。僕はきっとあんま師として、生きていく運命やったんだと、大げさですがそんな風に思っています。人のお役に立ちながら生きていけたらと思っています。皆さんの
健康のお役にたてるよう、一生懸命施術させていただきます。
公開日:
ダイエット担当 吉田恭子です。
吉田 恭子(よしだきょうこ)
昭和51年4月19日生まれ(O型)
大分県日田市出身
趣味 ライブに行くこと (コブクロ 安室奈美恵 東京スカパラダイスオーケストラ)
初めまして、かずひら鍼灸院の吉田恭子です。「あら?院長と同じ名字なんですね?」と時々言われるんですけど、実は・・・夫婦です(笑)
私は、福岡県北九州市で生まれ、両親の仕事の都合で大分県日田市にて高校生まで過ごしました。大分県日田市は、天領(江戸幕府の直轄領)で、山に囲まれ、水がきれいで、現在は焼酎の「いいちこ」や天然水の「日田天領水」などが有名です。私の実家も周りを山で囲まれ、周辺にはジュースの自動販売機が1台あるだけです。そんな田舎で育った私は、活発な子供だったそうです。(自分ではそんな風には思わないんですけど・・・)とにかく自転車に乗るのが大好きで、遠くまで自転車で行き、そこで遊んで、帰りは徒歩。そうなんです・・・自転車を忘れて帰ってくるということが何度かありました。そんな活発?どんくさい?私でしたので、母は厳しかったんです。よく怒られました。それに反発するかのように、高校生になった私は、「卒業したら実家を出て、都会で自由に暮らすんだ」という「夢」を持つようになったんです。そして、その夢を叶えるべく、高校卒業と共に、東京へ行きました。「東京で美容師になろう」と決意して・・・
しかし、初めて都会。初めての自炊。初めての仕事。初めてずくしだった私は、すぐに挫折。先輩を頼り、大阪へ移り住みました。そんな経験をして、初めて「母親」の偉大さを実感したんです。毎日、掃除をしたり、家族の分まで食事をしたり、それでいて仕事までしていて・・・生きていくって大変なんだな、母親ってすごいんだな。と感じました。
当院には、私の母親世代の患者さんもたくさん来院されています。特に、私が担当させていただいている「セルライトもみほぐしダイエット メディカルセル」は、「お母さんのダイエットをお手伝いすること」を目的に、日々取り組んでいます。母親と同じくらいの年齢の患者さんとお話をしていると、ふと、大分県で一人で暮らす母のことを思い出すことがあります。今も元気で暮らしていますが、それでも「元気かな?」とふと思うことがあります。
昔は、厳しくて「鬱陶しいなぁ」と思っていたのに、自分でも不思議な感覚です(笑)
自分の母の姿を患者さんに重ねてしまうのは申し訳ないんですが、でも、自分の母にいつまでも元気で居てほしいという想いを、施術に込めて、患者さんのダイエットをお手伝いさせていただいています。世の中のお母さんに、今以上元気」・きれいになっていただき、楽しい毎日を過ごしていただきたい。それが私の想いなんです。
お母さん方の健康・美容のお役に立てるよう、一生懸命ダイエットのお手伝いをさせていただきます!
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